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秘話「関東大震災と川越」

「武井誠 市民運動デイリーレポート」の一部記事について、その詳細報告を掲載しています。
このページは、2007年11月15日掲載デイリーレポート記事 秘話「関東大震災と川越」 の詳細報告です。

以下、元記事。

11月11日に行われた「川越・唐人揃いパレード」は、朝日新聞の記事によると、大成功だったようで、よかったなあと思います。
このイベントの記念誌「信」(300円)を購入しました。その中に、坂戸の街づくりについても有意義と思われるエピソードが掲載されていましたので詳細版で、紹介させていただきます。

秘話「関東大震災と川越」(「川越・唐人揃いパレード」記念誌より)

「川越・唐人揃いパレード」

関東大震災後の惨劇

 1923年9月1日、午前11時58分、震度7の激震が関東地方を襲い15万人近くの方が亡くなりました。関東大震災です。

 惨劇は地震直後から起こりました。午後3時過ぎごろから東京や横浜で逃げ惑う人々の間に「社会主義者、及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」などといううわさが流れ始めました。そして、それは「朝鮮人が来襲して、井戸に毒を投げ、放火、強盗をほしいままにしている」というデマとなって他県にも急速に広まりました。
 恐怖におののいた人々は、町や村に竹やりや日本刀で武装した自警団を組織し、通行人を検問、そこを通りかかった中国人や朝鮮人を殺害しました。虐殺された朝鮮人は6000人あまり、中国人は160人あまりと言われています。

 後に、この悪質なデマの出所の一部は警察と軍隊であったことが明らかになりました。9月5日、時の政府は朝鮮人殺害を自重するよう告諭を発し、「保護」の名目で朝鮮人を収容するようにしましたが、時すでに遅く、この他民族迫害の惨劇は深い傷痕となり、日本の歴史の汚点として残る結果となりました。

そのとき川越では

 余震の続く1日の夕刻、うわさが流れてきました。当時、川越市内には、18人の朝鮮人と2人の中国人が住んでおり、彼らの所在は多くの市民の知るところでした。そして、デマを信じた一部の市民が彼らを襲撃しようとしたのです。

 しかし、川越市においては実にすばやく、賢明な処置がとられました。いきり立った市民の手から、彼らを守るために、市役所の市長室裏庭と警察署に、いち早く彼ら20人を保護しました。そして、棍棒や鳶口などの凶器を持った市民から、最後まで彼らを守り抜き、一人の犠牲者も出さなかったのです。しかも、「慰安ノタメ金員ノ寄贈、被服ノ給与等ヲナセリ」という行き届いた処置をとりました。その結果、昭和30年代まで朝鮮や中国の人々から9月1日になると感謝の書簡や物品が届いたとのことです。

 時の川越市の指導者たちはなぜ、このような緊急事態に冷静に対処できたのでしょうか。
@ 執行部を支える市民の中に、デマに惑わされない知恵と勇気があった。
A 江戸時代に朝鮮通信使の仮装行列を楽しんだ、といった歴史が市民に、他文化を受け入れる国際感覚を育んだ。
B 明治26年の川越の大火以降「蔵造り」の商家をはじめ、住宅が堅牢に作られ、被害が最小限度に食い止められたこと。
こういった原因が考えられます。